昭和42年7月13日 十三日会
願い合い致せと。親の事は子が願い、子のことは親が願い、願い合いに致せと。親には親の願いがある。子供には子供の願いがある。最近は、その、親子関係の、おー、事情が非常に難しい。世代が違う。例えば、私共の時代、子供達の時代。思い方も違う。いや、信心ばっかりは同じだと言うても、やはり、その信心の進め方が違う。私達が若いときには、こげな修行した。と言うても、子供達にそれが通じない。そこに、その、親の言う事を聞かんという、子供は親が理解しないと、こういう、という事になってくるですね。これは、信心だけの事じゃありません。全ての事がそうなんです。そこでその、親が子の事を、分かろうと努め、子供が、また、親の心が分かろうと努めるというところに、願い合い致せと。どうぞ、親が一日も長生きのおかげを頂きまして、えー、健康のおかげを頂きますようにと。子供が、どうぞ、私の思いがじゃなくてからね。神様の思いが分からせていただきまして、どうぞ、良い信心ができますように。そういうような、願い合いを致しておるうちにです。ね。子供が、例えば、私から見ては、目に余るような場合があっても、子供は子供での願いがある。ね。そして、その願いが、神様の大きな一つの、願いの中に、くるまっておかげを受けていくと。行き方は違っても、それでおかげを頂こうとしておるという事。そうしてですね、願い合いをして行くうちにですね。いよいよ、親の心が分かり、子供の心が分かり、本当に、願い合いを致していくという、いわゆる、親と子が拝み合うて行けれる状態が頂けれるのが親子の間だと、こう言う、ね。もう、お父さん達の頭は古いんだと。お前達の若いのが何が分かるかと。なるほど、古い頭は古い頭なりに、良いものがあるのであり、若い考え方は、若い考え方で良いのがあるのである。だから、その言い方が良いほうに育っていくように願い合い致したらいいのである。同じ自分の思うようにならんから、というのではいけんのである。まあ、これは、昨日、一昨日の例話でしたけれど、丁度、末永さんが、んー、お届けを致しますことの中に、私と、私というのは、末永君。末永さんと、ひろ子先生と、それから、あー、私の若先生と、三人が一生懸命田植えをしておる。ところがその、ひろ子さんと末永さんは一生懸命田植えをしておるのに、若先生だけは田植えをなさらずに、向こうのほうで魚を釣っておられるというお知らせである。まあ、そういうところが、例えば、私が見たり、家族のものが見たり、そら、みんなが見てから、どうもこの頃、若先生は朝の御祈念にも出て来なはらん。どうしたふうじゃろかと。あれで、二代が大丈夫じゃろかというふうに、心配して下さる方があって、色々お届けがあるんです。けれどもね、私が、ほんなら、あの人の事を願わんはずがない。いわゆる、願い合いしよるのである。だからこそ、ああして行くんだという事なんです。私が願っておるから、あれなんだということ。というて、ほんなら、私達の若い時代は、私共の修行時代とは違った意味での修行しておるんだと。まあ、言うならば、田植えというのは、一切が、ままになるという為の基礎を今、ほんなら、ここでの修行生の先生方はやっておるわけなんです。すと、若先生の場合は、もう、そこを田植えを一遍終わって、今度は、信心の本当の深さと言うか、新味といいうか、言うなら、あの、三昧境というやつですね。釣りを致しますときに、あの、釣りの境地を釣り三昧と申します。じーっと、掛かりもせんとに、あそこに、座がまっとるもんですから、本当にそこに面白味がなからなければ、こんな馬鹿げた話は無いですよね。水の中に入って掬うとか、網を打つとかいや、手っ取り早い話なんだけれども、いわば、浮きを向こうへ流しといてから、その浮きが動くのをまっとるち言うのだから。こんなに気長い話は無い。けど、そこに三昧境があるのだと。こういう中に、神様は、どう働いて下さるのだろう。こういう中から、神様を。どう頂いたら良いだろうかというて、心には、工夫しながら、その信心の三昧境を稽古しておるんだというようなお知らせを頂いておるんですね。それを、ほんなら、私はどうでしょう。もう、本当に、今の若いもんばっかりは、もう、修行精神が無い。と言うて私が、若先生に、がみがみ、がみがみ言うたら、おそらく、私の心からどころじゃ、神様の心まで、離れていくことになるでしょうね。皆さんが、例えば、子供さんの中に、いう事を聞かん人があるとするか。ね。思うようにならん、親の思うようにならんという人があるか。けれども、お取次ぎをしてお願いをしておるのであるから、神様の願いの中に、そういう風にあってるんだというところに、安心もいきゃ、それを攻め立てることも要らない事になって来る訳なんです。ね。そこんところが、私は、頼み合いが日頃なされておかなければならないと、こう思うのです。ね。しかもその、頼み合いが、段々、段々こう、本当の頼み合いになってくる時にです。ね。色んなところを様々に通らせて頂きながら、なるほど、先輩が言いよった話は本当だと。やはり、先輩のいう事を、やはり、行じたが本当だと。いや、親先生が言いよんなさったつが本当だ、あの行き方で行くのが本当だと、こう分かって、それに接近してくるわけなんです。ね。そこに、親の願いと、子供の願いというものがです。ね。かけ離れておるからといって、それを、どうこうと言うちゃならん。違うはずなんですよ。頭が違う、時代が違う、ね。片一方はもう老巧、片一方はまだ幼稚なんですから。そのはずなんです。それを、ああしなければ本当じゃない、こうしなければいけないというような事の中に、幸せ、いわゆる、和というものが生まれてくるはずがない。親は、子供の願いを分からせてもらい、子供は、親の願いを分らせて頂こうと、頼み合い出すというところに、信心があるのです。ね。教祖の神様は、そこのところを大事にされる。親の事は子が頼み、子のことは親が頼み、願い合いに致せと。願い合いしていくうちに、本当の事が段々分かって行くわけですよ。ね。
十三日会が天地の親神様の願いが成就していく日だとして、皆さんが大事にされている。これなんかは、親の願いを親の願いとして分からせて頂き、その親の願いに添わせて頂こうというのが、十三日会の私は、主旨だと思うのです。ね。だから、十三日会の日にはもう、私共の願い事といったようなものは、必要じゃないかというと、そうじゃない。私共には、私共の願いというものがある。その、願いを通して、親神様の願いと一つになるところまで辛抱していかにゃいかん。私共の願いが、天地の親神様の願いと、同じになると言うところまで。そこが、信心辛抱なのである。私は、今日、思うたんですけどねえ。この修行という事でもそうです。今朝からの修行は、後から一辺、今朝のご理解を皆さん頂いて御覧なさい。始めて頂いた御理解だった。「此の方の行は、火や水の行ではない、家業の行という。」家業の行に対するところのお話と、ね。信心修行のお話とが、二つが一つになっていこうというお話しである。ね。家で一生懸命働いてさえおきゃ。例えば、あの、石井清さんなんかの生き方がそうですね。もう、家で一生懸命信心になって、仕事に打ち込んでいきゃ、なるほど、真っ黒になって働くから、働きますから、やはり、働く徳というものか、働けば、お金は人よりも余計儲かるこつだけは間違いない。さあ、ところがどうですか。確かに儲かりよるのだけれども、残らんでしょう。どころか、赤字になっていきよるでしょう。先日も、お母さんが、その事をしみじみお話をするんですよ。あれだけ一生懸命神様にも参らんごつして言うならば、信心修行はして貰っとるけれど、ほな、家業の行はさせていただいとるけれども、これでは先生、いよいよ、家庭の中にも困った事になってくる。第一、兄弟の仲が良くない。嫁ごと嫁の仲がいけなくなって来た。ね。勿論、そんなわけですから、仕事が面白く行くはずがない。というような、ね。だから、そういう行き方とても、ほんならば、神様の大きな願いの中に、そういうことは分からせて頂きよるんですから。というて、さあ、何かという時には、例えば、先月も誕生だからと言うて、赤飯炊いてお礼に出てきておるんですよ。ね。だから、神様外したわけじゃない。もう、自分な、家業の行だというところだけ、ちょっと、いわば、頂き違えたような感じだけれども、それを、私が責めんわけにはいかんのである。ね。ははー、家業の行というのは、神様の行、いわゆる、信心修行と、これとが一つにならなければ、本当の家業の行というものは出来るもんじゃないんだなあという事が分かるような、おかげを頂くために、そういう一つの過程を通っておる。ね。そこで、思われるのは、信心辛抱ということなんであります。ね。皆さんもう、あの、この頃から、久留米の初代の、んー、お言葉を、四代金光様のお書き下げ下さったのを、その、皆さん頂かれましたでしょうか。久留米の、ね。信心辛抱さえしとりゃ、物事務まらんことないぞと、四神様が仰った。それを、私共、先日頂いてまいりました。ね。ここの記念祭のときに頂きましたのも、三代金光様のお言葉を私が、書かせて頂いた。「神信心には、辛抱することが一番大切でございます」とこう仰る。その、辛抱することが一番大切でございますという、そこんところを抜きにしてから、おかげの頂けるはずはございません。信心修行もありません、えー、家業の行もありません。そこで、私は、今日思ったところなんですけれどもねえ。例えていうならば、私の行き方は、皆さんご承知のように神様が、求め賜う修行を修行としてという事なんですね。これは、もう、一番間違いのない修行なんです。神様が、求め賜うところの修行。自然が私共に求める修行。例えば、今度、伊万里あたりが大洪水がございました。先日から、ここから丁度、二十一名の方達が、御用奉仕に参りました。本当に有難い事だなあ。本当に、まあだ、その隅々まで椛目ち知らない中に、まあ、とっさの場合でございましたから、小型のトラックじゃございますけれども、二台の、おー、色んな、あー、まあ、救護物資とでも申しましょうか。もう、それこそ、布団、コタツから行きました。もう、お米なんかは勿論でした。もう、ほんとにこまいところまで、もう、ほんとに、大水の時には、こげな、こういう事にも難儀、困ったからと言うて、こまいところに心遣われて、集めましたのがトラック二台分になりました。しかも、そうして、もう朝から、大変、色々難儀がございましたらしいですけども、おー、晩の十一時ぐらいまででした。帰って見えたのが。もう、泥まみれになって帰って見えました。もう、昨日、竹内先生から電話が架かって、もう、へとへと、もう、先生只今始めて自宅に帰りました。もう、大変なことでございましたけれど、もう、大変な広大なおかげを頂きまして、皆さんにどうぞよろしゅうという電話がありました。重役さんですから、もう、おー、市役所にもう、そのまんま、居続けらしいんですよね。もう、自分のことなんか、その、かまけておれないというような状態。私は、二十世帯と思いよったが、二十五世帯あるんですねえ。御信者さんが。その中に、まあ、大変ひどい方が、まあ、二、三ある。けども、まあ、怪我やら死傷者がないのが幸い。もう、とにかく二階まで泥が一杯だというのですから。ね。そういう、例えば、あー、中にですね。そういうその、御用が出けて行きよる。例えて申しますならば、あの、井戸ポンプのちょっと可笑しくなったのは、幾ら突いても出ませんですよね、水が。それに、ちょっとこう、迎え水を足しますと、こう出てくるようになる。修行もね、ここんところが大事のようですね。只今申しますように、その、今度の伊万里あたりの場合はです。もう、それこそ、大自然が伊万里市民に求められた修行なんです。ほらもう、神様がこげなひどいことして、ということは無いのです。ね。それこそ、大自然が伊万里市民に求められたところの、あの修行を修行と分からせて貰うか、あれを災難だと頂くか。ね。あれを修行として受け抜いていくときに、私は、焼け太りじゃないけれども、水太りのおかげを受けられておると思う。だから、私は、勿論、水ぶくれになっちゃいかんと思う。ね。水ぶくれち言うのがあるんですよ。大水の入ったために、こげん儲けたち言う人がある。そら水ぶくれじゃいかん。押したら、ぴしゃっと、ひしゃげてしまう。ね。だから、そのう、水太りでなからにゃいかん。為には、自然が求めた自然の猛威といったような言葉でいうけれども、自然が、あちら地方の人達に求められたところの、大修行であると分からせて貰うて、それを受け抜いていくところの信心が必要なんです。ね。私の生き方はこれなんです。お互いの周辺に起きてくる様々な難儀というような問題でも、これは、もう、自然が求め賜う修行なのですから、それを修行として受け抜いていくということが、一番大事なことだけども、それだけではいけない。いわゆる、信心修行がいるんだということ。お前の修行がいるんだと。此の方の行は、火や水の行ではない、家業の行と仰るけれども、信心修行としての火や水の行もまた、必要だということ。ね。ですからですね。神様は求め賜うと。神様は断食せよと。誰でも彼でも、断食せよと仰るはずはないけれども、場合によっては、断食をせよ、水をかぶれという時もある。も、こげんとならば、絶対、神様の行として受けて下さるんです。けれども、さあ、私共は、どういう風に信心修行してよいか分からないでしょう。そこんところにです、私は、湧き出るまでが信心辛抱と言う、あれでもなかろうか、これでもなかろうかという、迎え水がいるんだということ。お供えもんをうんとして見るが良い。御用も色々としてみるが良い。一生懸命朝参りもしてみるが良い。水もかぶってみるがいい、断食もしてみるが良い。もう、人のしたという修行なら、同じ人間がするんだもの、人がした修行が自分に出来ぬはずはないというような心持で、様々な修行もさせて頂いて行くというところからです。いわゆる、神様の本当の修行をですね、こう引き出すわけです。いわゆる、貰い水的あの、この、迎い水的なことになってくる。ね。そして、はっ、この修行は神様が、ばちっと受け止めて下さったんだなあという、この辺のところがです。親の願い、子の願いの、が接近していくところなのです。ね。親の思いを分かろう、親の思いを分かろうと。こうして親の思いを分らせて頂こうというところに、断食が有り、いわば、水行があり、ね。親の思いを、どうしても分かろうと。様々に、やはりそこから、私は、信心修行が出るですね。必要であるということ。しかもそれも、一辺、二辺迎え水したから、もう、出らじゃった、私だんもう、おかげ頂ききらん、いんや、神様はござるやら、ござらんやら分からんといったようなものではなくてです。そこんところを、三杯で足らんなら、五杯で足らんなら、十杯と、いわば、迎え水をさせて頂くところからです。ね。突けば何ぼでも出て来るというようなおかげに行き当たるわけです。親の願いと子の願いが一つになるわけなのです。私は、今日は、ここんところを、本当に、ははー、私共の場合は、ここのところに徹底していったおかげだなあという事を思うんです、修行ということでも。いや、信心修行という事でも。同時に、只今頂く家業の行ということの内容について、また、分からなければいけません。
今日は私、昨日は、あー、もー、熱発しましてですね。もう、寒気が来て、身体全体が、もう、とにかく、もう、手足がちぎれるごつだらしいんですよ。とうとう、昨日は御無礼しましてから、一日休まして頂きました。そしたら、夕べ夜中まで悪かったんですけれども、おかげ頂いてから、今朝はもう、とても爽快だったんです、目覚ましが。おかげで、熱も、もう、ま、少しはあるけれどもというくらいでした。それで、ま、当たり前に御用をさせて頂いておりましたけれども、んー、皆が心配してから、下がりなさい、下がりなさいと言うてくれますけれども、いいや、いいよと言うて、私は座っとった。そしたら、あの、末永さんがです。先生、どうも、まあだ、気分が悪いような顔してられますから、あの、代わらせて頂くとこう言う。いやあ、大丈夫ですよと、言うて代わらなかった。それから、一時間ばかりしましたら、ひろ子先生がやってまいりましてね。代わらせて頂くという。その時私は、ちょっと考えましたですね。ああ、こりゃ、神様はどういう風に私の身体の上に思いを掛けておって下さるやら分からんのに、人が代わって、代わってしばらく休んで下さいち言うのに、いいよ、いいよと言う訳にはいけんと思いましたからね。私は、あの、神様にその事を御願いさして頂いたら、代わることを頂いた。そるきん、さっから、末永さんが一時間前に代わると言うた時には代わらんで、ひろ子さんが来たときだけ、どういう訳じゃろかと私は思うたんですよ。そしたらあの、繁雄、あの、何、久保山繁雄さんを頂きました。ははー、髭が伸んどるけん、今日当たり、髭剃り来るかなあと思って下がった。下がって、身体をあの、水で拭かせて頂いてから、あの、私の居間に下がらせて頂いたのと繁雄さんが、親子でやってくるのとが一緒だった。今日はあの、髭を当たりに来らせて頂きましたとこういう。私は、それを頂いて、神様の深い思いというものを感じんわけには参りませんね。たった、それだけの中に。どうですか。末永さんが代わりたいとこういう。いいえ代わらんでいいよ。ね。初めの間は神様はよかち言いなさってから。二度目には代わりなさい。どういうわけじゃろか。お伺いなんかの時には、これを得てして思うのですよ、皆さん。ね。お伺いさせて頂いたら、こうじゃった。ああ、こうじゃった。もう、次から次と神様のご都合があるとですよ。ね。なら、一時間後に今度ひろ子さんが、代わらせて頂きますと言う時にゃ、はっと言うてお許しを頂いた。私の方が、可笑しいぐらいであった。どういうわけじゃろうかと、こう思うた。ね。そしたら、ね。やはり、ひろ子さんの願いも聞いて下さり、末永さんにも教えて下さる。ね。私も、身体を楽にして下さる。それも、そこには、ちゃんと口実が設けられてある。髭を当たりに来る時には、あちらへ下がって、長うなって、髭を剃ってもよいことになっておる。だから、途中で、どうしてじゃろかというたら、もう、神様のいかんにお伺いをしてもです。神様にお願いをしても、信心を続けておってもです。そこでプツットきったらもう、お終いなんです。だから、全てのことに、信心辛抱がいかに必要じかということが分かるでしょうが。もう、皆さん、あの、金光様のお書き下げを皆さんが頂いておられますよ、あの、その、信心辛抱さえしておりゃ、物事整わんこと無いというね。神信心は、辛抱することが一番大切でございますと仰る。もう、このこと一つを思い込んどきゃいいんですよ。どういう場合であっても。そして、いかにも、神様に力が無いように言うたり、いわゆる、親の思いと子の思いとが、何時もその度に、こう離れて行く。ね。接近してきよるかと思うと、もう、この辺に、こう、手がならん先に離れていくというようなこと。親の願い、子の願いがです。いわゆる、ちぐはぐになって、家の親は分からん親である。家の子供は、いよいよ不良の子である、いう事を聞かん子であるになる、してしまう親が。子供がして、親がそうしてしまう。ね。そこんところがですね、お互いが分からせて頂くために、どうでも信心辛抱が必要なんです。そしてからその、信心辛抱の内容というのが、今日、私が申しましたように、親の思いと、子の思いというものがです。段々、こう、一つに成って行くという、その過程をですね、楽しませて頂きながらです。ある場合には、それこそ汗みどろになって、言うなら、田植えをしておる時代があってよろしいのであり、または、釣り三昧の境地を本当に分らせて頂こうとする信心があって良いのである。自然が求め賜うところの修行さることながら、そうした神様の、本当の、私共に対するところの願いというものがです。探り当てんために、あの修行もこの修行も、信心修行の上においてさしてもらわなければいけないということ。修行という修行はした。あの修行もした、この修行もした。あの修行だけまだしとらんというのなら、その修行を、ま一丁して見りゃいい。そこに、神様とぱっと繋がるようなものが、出てくるやも分からんのですから。ね。信心修行と、家業の行というところも、これが一つにならなければおかげにならないように、親の願いと、子供の願いというのが、一つになっていかなければ、おかげにならない。と言うて、初めから一つになるはずは無いということ。世代が違う。信心で言うなら、いわば、信心の程度が違う。神様の思いが、そう初めから分かるはずは無い。そこんところを、様々な、工夫をさせてもらう信心修行によって、分からせて頂くところの、おかげを頂かせて貰うて、ね。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで頼み合いに頼み合いしながら、成就していくところのおかげの世界というものを顕現していく。現して行く。そういうおかげを頂いていく、そういう願いが目指しであって、私は、十三日会の本当の意義があるというふうに思うんですね。どうぞ。